さて、今お話しした2つの例は、オーブの触手を描写したもの・・・だと僕は思っています。
でも、あなたはまだ、十分ではないと感じるかもしれません。仮に僕がお話ししたオーブの変化を受け入れていただいたとしても、例えば仏像の光背や、絵画に描かれた後光などに比べると、触手を表現したもの、描いたものは圧倒的に数が少ない。確かにその通りです。その理由は何でしょうか?
実は、僕はここまで非常に重要なことをあえて強調しませんでした。その上であなたに2つの例をご紹介したのですが、この2つに共通点があることにお気づきでしょうか? 1つは、インディアンのシャーマンの話。悪霊が人を攻撃するのに「触手を使う」。もう1つは未来の生物が、ヒロインを癒すのに「触手を使う」。そうです。触手は持ち主が何かの目的で意図的に「使う」ものなのです。
金色の光背や、後光は、オーブの変化の過程で起こる一種の「現象」といえます。高い精神性などの条件さえ整えば、本人の意思には関係なく勝手に起こる。逆にいえば、そのままの姿を絵や像として表現するだけで、持ち主の精神性の高さを表現でき、だから、その表現は「お約束」として使えます。仏像の背中にはこういう形の飾りを「つけるもの」だよね・・・とか、聖人の頭の後ろには「後光がさすはず」だよね・・・それを守りさえすれば、極端な話、「見えない」人でも、見える人と同じものが描けるし、創れることになります。
でも、触手はそうはいきません。確かに形を真似て描写することは可能ですが、それでは意味がわからない。攻撃だったり、癒しだったり、触手の使い方の振れ幅は大きいので、触手があれば「こういう意味」ですという決まりがない。どんな状況なのか、持ち主はどう触手を使おうとしているかという、いわば文脈が必要になります。これは見えない人には真似がしにくい。僕はこれが触手を表現したものが少ない大きな理由なのではないかと思います。
ただ・・・それでも、ちゃんと意識して探せば「これは見えている人が創ったにちがいない」というものが見つけられると思います。持ち主の背後から後頭部にかけてたくさんの紐状のものが存在し、それが持ち主の意図を反映している。そんな表現です。ぜひあなたも考えてみてください。